聖福寺123,125世、仙厓和尚の筆による
記録によると、栄西禅師が鎌倉時代に中国で臨済宗の教えを学んだ後、帰国して博多にその教えを広めるために聖福寺を開きましたが、より多くの人々に広めるために糸島の地にもお寺が建てられました。その中の一つが徳門寺であったと思われます。つくられたころは、竜雲庵という寺号でしたが、寛文5年(1665年)に圭浦和尚が再建した際、徳門寺と改めました。 寺宝に、「栄西禅師頂像」があり、楼門の文字は聖福寺の仙厓和尚が書いたものです。
江戸時代の文化八(1811)年に、博多聖福寺にある栄西像を写したものです。筆者の喜多元規は、黄檗宗の頂相(僧侶の肖像)画家として有名で47年間の長きに渡り、活躍しました。この画は、2008年に九州国立博物館で開催された、妙心寺展に出展されました。
書き下し文
聖福開山明菴西禅師像
三蔵の重来にして黄龍九世の法嗣
天童の一灯、善く継いで三たび衟場を建て
灋は大方に流れ護国興禅同に超ぜり
実際、狂風にも動かずして道彌々高く、
四百餘年、光益々麗し
歳庚戌中元朔
雪峯後学一即非が和南して題す
於壽山方丈
日本語訳
聖福開山明菴西禅師像
(しょうふくかいさんみょうあんさいぜんじぞう)
(栄西禅師は)三蔵法師の生まれ変わりであり、(臨済宗黄龍派の祖である)慧南禅師から数えて九代目にあたる。
(天童山景徳寺の)虚庵懐敞の教えを正しく受け継ぎ、(聖福寺、寿福寺、建仁寺)の三つの道場を建て、その教えは多くの人々に広められ、国の平安を守ること、禅の教えを興したことに優れていた。
実際、(奈良の興福寺や比叡山の延暦寺などの他宗の)妨害にも動ずることなく、(その教えは)四百年余りを経た今も益々光り輝いている。
寛文十(一六七〇)年一月一日
雪峯山崇聖時住職 即非如一
聖寿山崇福寺にて礼拝しこの文を記す。